バイトテロで考える『悪について』

450/ 2月 17, 2019/ 自分に向けた覚書

こんにちは。一郎です。

最近、“バイトテロ”なんて言葉が

よく聞かれるようになってますね〜。

飲食とかコンビニとかで、

色んな意味で、やったらマズいことを

あえてやって、世界へ発信するという…。

これって、もっと大分前にも

同じようなことが多発してましたよね。

その時も結構話題になってたので、

企業とか自分の身の回りとか、

色んなものを巻き込んで

とんでもない事態に発展してしまうのは、

基本的にはみんな知っているはず。

なのに、また流行っていますよ。

これは一体…!?

“バイトテロ”っていう響きは、

言い得て妙な感じもあったりして、

もはや社会現象と言えそうにも思えます。

ただ、当たり前ですけど、

どれだけ考えても、

その当事者の動機は

わからないんですよね。

でも、社会現象のレベルの話なら、

気づかないうちに、

自分も地雷地帯に突入してるかもしれません。

なので、今日は、

自分に問いかける意味で、

“悪について”考えてみます。

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モノとしての扱いが創造性を奪う

人間として生まれてきて、

生来“悪”であるということは、

あるんでしょうか?

私は、そんなことはないと思っています。

やっぱり、環境による抑圧の中で、

“悪”の行いが生まれるんじゃないかと。

悪について

(著:エーリッヒ フロム、訳:渡会 圭子)

ちょうど最近読んでいた、

ドイツの社会心理学者の書籍です。

今回、これをきっかけにさせていただきます。

「巨大な生産拠点、巨大な都市、巨大な国家では、人はモノのように管理される。人とその管理者はモノに変容し、モノの法則に従う。しかし人間はモノになる必要があるわけではない。モノになったら人は破壊されてしまう。そうなってしまう前に、自暴自棄になってすべての生を殺したいと思うようになるのだ」

悪について』P69

これって、私的には、

ちょっと言いづらいですが、

身に覚えがあるというか(笑)。

例えば、人間関係や職場環境など、

色んな場面があるでしょうけど、

“モノ”的な扱いを受けたことがある人って、

少なくないのではないでしょうか。

これは、創造性を発揮できない状況、

という風にも言い換えられるように思います。

この創造性を奪う病理として、

この本の前半では、

“死への愛”、“近親相姦的共生”、

そして“悪性のナルシシズム”、

という3つが説明されていきます。

この3つに関しては、

冒頭の大きな山場だったりするので、

特に心理学的に突っ込んで考えたい人は、

実際に読んでみてください(笑)。

これらの要素は、程度は違えど、

ほとんどの人が持っているわけです。

そして、それらが

悪性の方にバランスをとられた際に、

悪の行為が発生すると。

「重要なのは、極端なケースは別として、個人や各集団はいつでもきわめて非合理的で破壊的な方向へ退行しうるし、逆に啓蒙的かつ前進的な方向へ進む可能性もあると認識しておくことである。人間は善でも悪でもない」

悪について』P171

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自由とは良心の声に従う能力

元々、人間が善でも悪でもないなら、

じゃあ、人間の本質って、

一体何なんでしょうか?

「人は他のすべての生物を超越しているが、それは自らを意識できた最初の生物だからである。(中略)人間は自然に囚われながら、自らの思考では自由であるという、驚くべき矛盾に直面する。(中略)人間は自己認識を持つために、世界のなかのよそ者となり、孤立し、孤独で、おびえることになった」(太字部は本来傍点)

悪について』P161 

エーリッヒ・フロムさんは、

この人間が持っている矛盾自体を

人間の本質と考えたようです。

この人間としての葛藤が根本にあるので、

孤独から逃れたいと求めることになり、

結果的に、感情や行動が生み出されていくと。

つまり、私たちの生き様というのは、

この人間が抱える大問題に対して、

自分なりに出した答えなわけですね。

「本質をなすものは問題それ自体であり、答えをだす必要性そのものである。人間存在のさまざまな形態は本質ではなく、それ自体が本質である葛藤に対する答えなのだ」

悪について』P162

この葛藤への向き合い方としては、

前に進むのか、後ろへ進むのか、

この2つしかありません。

前に進むというのは、

この問いかけに対して、新しい解決法を

見つけ続けるということです。

解決の先には、

また矛盾が待っていますが、

それでも解決法を生み出し続ける。

これが前に進むということで、

ここには創造性が必要なわけです。

その逆方向には、

人間特有の部分である自己認識を捨て、

モノとして全体と1つになっていく、

ということがあります。

自分を捨てて、何かの集団や思想に属し、

その中に一体感を見出していくことで

孤独に対する不安を軽減できるわけです。

「多数の人が同意するという事実によって、愚行が賢明な行動に、虚構が現実になる。この広がる愚行には、完全なる孤立や分離といった感覚がない。そのため進歩的な社会で経験する強烈な不安を感じずにすむ。大半の人にとって、理性や現実とは世論にすぎないということを覚えておかなければならない」

悪について』P163

聖人や極悪人でもない限り、

序盤にあったように、

前に進んだり、後ろに進んだり、

いつでもそのどちらかに

針が振れてしまう可能性があるのです。

そして、そういったバランスの中で、

前に進める人こそが、

“自由”であると言えるようです。

「よいか悪いかは、常に生の基本となる道徳的問題に照らして理解されるーー前進か退行か、愛か憎しみか、独立か依存か。自由とは非合理的な情念に反して、理性、健康、幸福、良心の声に従う能力にほかならない」

悪について』P181

では、その自由を保つ要因は何なのか?

「悪いことよりよいことを選ぶ決定的要因は自覚にあるということに行き着く」 (太字部は本来傍点)

悪について』P184

この“自覚”には色んな種類があるようです。

行為の裏側にある

無意識的な本当の理由を自覚すること。

自分の行為が何をもたらすのか、

その結果を自覚すること。

結果が決まる決断の瞬間はいつなのか、

その本当のタイミングを自覚すること。

バイトテロに関しては、

この点が欠けていることは

間違いないと思います。

動画をアップしなければ

失敗はなかったわけではないのです。

それはとっくに始まっていて、

気づいた時には、

もう戻れなくなっている。

「失敗するのは彼らが決定すべき人生の岐路に立っているとき、目を覚ましてそれを理解しないからなのだ。彼らは人生に問いかけられているとき、そしてまだ二者択一から選ぶ余地があるとき、それに気づかない。そして誤った道に歩を進めるごとに、自分が誤ったほうへ向かっていると認めるのが難しくなる。それもただ、認めてしまうと最初に誤った時点に戻って、エネルギーと時間を無駄にしたという事実を認めなくてはならないからだ」

悪について』P193

この社会を生きている上では、

色んな要素によって、

無意識が後ろ向きに

方向転換させられます。

人間というものは、

無意識に大きく動かされている。

これを、まずは

自覚する必要があるようです。

「自覚とは、その人が自分で経験し、実験し、他者を観察し、そして最終的には無責任な“意見”を持つのではなく、確信を得ることによって学んだことを自分のものにするということである」

悪について』P185

この自覚を得ていくためには、

健全なコミュニケーションの中での

“学習”が必要に思われます。

簡単ではないことでしょうけれども、

目の前の“人間性”から学び続けることで、

自分の“人間性”にもイノベーションが起こるはずです。

そして、それを再度、世の中に返していく。

そういったサイクルの中で、

自覚の力を高めていきたいと思っています。

この『悪について』という本は、

愛するということ』と対をなす、

エーリッヒ・フロムさんの名著です。

ここでは、“バイトテロ”という現象から、

感じた部分をピックアップしましたが、

すごい深みのある本なので、

ご興味ある方は是非手にとってみてください。

では、自分もタイミングを逃さないよう、

自由であれるように工夫していきたいと思います〜。

それでは、また〜。

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