純烈・友井雄亮さんの引退会見と、『生きるための経済学』

450/ 1月 15, 2019/ 自分に向けた覚書

こんにちは。一郎です。

2019年は、どんなスタートを切られましたか?

年明けから、なかなかブログを更新できずにおりましたが、

私の今年のテーマは「即興性」ということで、

機会を感じたら書く、ということにしてましたので、

本日、ようやくたどりつくことができました笑。

年明けからすでに色々な話題が飛びかってますが、

今回は、純烈の友井雄亮さんの会見に関して、

少しだけ感じたことを書かせていただこうかと。

純烈は、昨年、紅白歌合戦にも出演した

男性コーラスグループですね。

先日、実家に帰省していた折に、

自分の両親から教えてもらったくらいなので、

私はグループ自体について詳しくありません。

ただ、そうやって最近話題に出てきていただけに、

今回の引退会見はかなりびっくりしました。

とにかくまず、今回の関係者の女性たち、

傷を負わされてしまった方たちが、

これ以上、この件に関連して、

傷つくことがないことを私は願っております。

この点を前提にして、

友井さんについて感じたことをお話すると、

彼も大変な被害者に見えたということなんです。

これは、まさに昨年末の記事で書いた、

ハラスメントが連鎖した状態であると。

そして、それが結局は自らへと繋がってるのだと感じること、

それが必要なのじゃないかと感じています。

今回は、

生きるための経済学 〈選択の自由〉からの脱却

(著:安冨歩)

という本を参考に、この件を考えさせていただき、

この一件を、私自分を問い直す機会にしようと思います。

友井さんは、同棲相手の貯金、

3000万円を使い込んでいました。

しかも、その半分以上を

ギャンブルに突っ込んでいたと。

これ、正気ではできないですよね。

よっぽど自分の感覚を麻痺させないとできない。

先の本の中では、この自分自身を騙す、

「自己欺瞞」という現象について、

ハーバート・フィンガレットという、

アメリカの哲学者の考えを引きながら、

以下のように書いています。

「たとえば自分が恥ずべき行為をしてしまったとしよう。それが与える罪悪感や呵責がつらいとき、それに注意が行かないように潜在意識で判断して、自分でも気づかないようにすることは、十分に可能である。そうして意識を、自分の行為を正当化する理由のほうに向けたり、正しいことをしているというアリバイ工作に向けたりする。人はこのようにして、責任逃れをする」

生きるための経済学 〈選択の自由〉からの脱却』P63

3000万円という、しかも他人のお金を使い込むことは、

普通、尋常ではない罪悪感を感じる行為だと思います。

だから、自分自身を騙さないといけない。

こういった「自己欺瞞」には、

当然、危険性が伴います。

「この責任逃れは無償でできるのではない。こんなことをしてしまうと、自分の行いの現実に目を向け、それに十分な注意を払うことができなくなる。そうすると、ものごとをより精妙に創造的に扱うことができなくなる。そして、自分自身のありさまを知るという、痛みをともなうけれども、もっとも貴重な機会を喪失する」

生きるための経済学 〈選択の自由〉からの脱却』P63

友井さんは、

自分はどんな人間なのか、

どんなことがやりたいのか、

本来の自分自身が何を大切にしていたかも、

自分でわからない状態に

陥ってしまったんじゃないでしょうか。

ただ、この自己欺瞞は、

のっぴきならない状況と直面した際に、

自身を守るために機能している部分もあるというのです。

「フィンガレットはしかし、このような無意識の作動を無条件に非難するわけではない。「自分を騙すことは、人が耐え難い災厄に打ちのめされないようにするためには、心理的に必要なことかもしれない」と擁護する。自己欺瞞とは、つまるところ、私たちの高度な無意識の作動を悪用することである。それが悪用であるかどうかは、状況次第で決まる」

生きるための経済学 〈選択の自由〉からの脱却』P63

3000万円ものお金を使っても、

消えることのないストレス。

むしろ、使わずにはいられない、

というべきでしょうか。

これは、友井さん自身が、

途方もないハラスメントにさらされてきた、

ということも表しているようにも思われます。

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コミュニケーションにおける「学習」の停止とは

健全なコミュニケーションの中で大切なのは、

そこから「学習」し、メッセージを返すことです。

「たとえばAがBに対してメッセージを投げかけたとしよう。Bはそのメッセージを受け止めつつ、投げかけたAについての像を書き換え、また自らの状況についての認識を書き換える。この書き換えの作業を「学習」と呼ぶ」

生きるための経済学 〈選択の自由〉からの脱却』P142

では、コミュニケーションの中で、

この「学習」が失われた時、

一体どうなっていくのか。

Aからメッセージを受け取ったBは、学習過程を停止させた上で、学習するフリをして、Aにメッセージを返している。これに対してAは、そのメッセージをまじめに受けとってBについての学習を行い、その上でメッセージを返す。ところがこれに対しても、Bは学習を行わずにメッセージを返す。Bは、Aについての自分に都合のよい像を捏造し、その像に向かってメッセージを産出する。Bが抱くAの像は固定したままであり、それからAが外れた場合には、それを否定する攻撃的なメッセージを送るが、同時に、「これは攻撃ではない」というメッセージも送る。この二つの矛盾したメッセージを送ることで、BはAの学習過程を混乱に陥れることができる。この病的なコミュニケーションを私は「ハラスメント」と呼ぶ。

生きるための経済学 〈選択の自由〉からの脱却』P142

そして、ハラスメントを受けた人は、

無意識にハラスメントを仕かける側にまわってしまいます。

「ハラスメントを受けながら、その苦しみを誤魔化すために、「自分を攻撃している人は悪くない」「それは正しいことだ」、あるいは「私が望んでいることだ」と思い込むこと、これが呪縛にかかるということである。(中略)ある人がハラスメントを受け、呪縛にかかると、学習過程を停止してしまい、そのままの状態で他の人との対話を行えば、無意識にハラスメントをしてしまう。そのハラスメントを受けた人の学習過程が停止してしまえば、その人もまた誰かに対して無意識にハラスメントを仕かけることになる。こうしてハラスメントは無意識のうちに連鎖する」

生きるための経済学 〈選択の自由〉からの脱却』P149~150

友井さんは、今回の件よりもずっと前、

どこかのタイミングで、

自分のメッセージを、本当の意味では

誰にも受け取ってもらえない状況に

陥ってしまったのではないでしょうか。

そして、自分の「学習」も停止し、

まわりに無意識にハラスメントするようになってしまった。

友井さんはDVもしていて、

それも許されないことでありますが、

そのDVというものの構造も、

ハラスメント的なコミュニケーションの「呪縛」と同じような、

病的な関係性のあり方と言えるでしょう。

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ハラスメントの連鎖を断ち切るためには

ここまでの話は友井さんを擁護するものでもなく、

被害を受けた方々をおとしめるつもりもなく、

ただただ、友井さんのこれまでの人生が、

孤独であったことを感じざるをえないということです。

友井さんが自身でおっしゃっているように、

この機に自身の認識を改めて、

このハラスメントの連鎖から

離れてくれることを切に願います。

ただ、当事者ではない人たちこそ、

この件を、最低な人間の最低な行為としてゴシップ的に楽しんで、

気晴らしに終わっていてはいけないと思うのです。

これを、自分自身のストレス解消に使ったら、

ハラスメントの歯車は勢いを増すばかりです。

つまり、自分自身が、この一件を通して、

自分を問い直す必要があるということ。

これは決して遠く離れた世界の話ではなく、

目の前の相手をないがしろにするだけで、

自分の思いも寄らないところまで

世界はすさんでいってしまうということです。

目の前の人を大切にしよう。

今すでに手を動かしてやっていることがあっても、

目の前で何かメッセージを受け取ったら、

一旦その手をとめて向き合って、

自分の持ちうるスキルを出し切って、

それをさらに面白く昇華してみせよう。

即興的なスタイルの生き方は、

そういう意味で重要なんじゃないかと思っています。

まず、自分のまわりから。

かといって、気合いを入れ過ぎず、

抜き過ぎず、いい塩梅でいきたいですね。

さて、かなり長くなってしまったので、

今回は一旦この辺で。

今年も一年よろしくお願いします。

では〜。

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