学習という方法で、未知なる神秘へ手を伸ばせ

450/ 4月 7, 2019/ 自分に向けた覚書

こんにちは。一郎です。

本日は、学習することの意義について。

最近、自分がなぜ学習にハマっているのか、

その理由がわかってきたので、

それをまとめておこうと思います。

結論から言うと、

人は学ぶことを通して、

不幸から遠ざかれるんですよね。

それを逆に考えれば、学習を通して、

幸福になれるということなんです。

だから、学習は本当にオススメなのです。

さて、ここから先は、

急に話がややこしい感じかもなので、

おヒマな方だけお先へどうぞ(笑)。

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わかっているフリは不幸を呼ぶ

最初に出てくるのは、

ソクラテスさんなんですけども。

ソクラテスさんの有名な考えに、

「無知の知」というものがあります。

「思うに、死とは人間にとって福の最上なるものではないかどうか、何人も知っているものはない、しかるに人はそれが悪の最大なるものであることを確知しているかのようにこれを怖れるのである。しかもこれこそまことにかの悪評高き無知、すなわち自ら知らざることを知れりと信ずることではないのか」

ソクラテスの弁明・クリトン』P42

ソクラテスさんは、

無知とは、“本当は知らないことを

知っているかのように信じること”、

と言っているのですね。

そして、自分が本当には

わかっていないことに気付くことが、

「無知の知」という状態な訳です。

この「無知」というもの、

仏教では、「無明(むみょう)」と

表現されているんですね。

無明は、つまり無知のことなので、

ソクラテスさん的に考えると、

知らないのに知ってるフリの状態です。

仏教には、この無明になる原因として、

煩悩という言葉があります。

この煩悩という言葉に関しては、

ご存知の方も多いのではないでしょうか。

煩悩は108ありますが、

ザックリ言うと、

欲、怒り、妬みの要素が強敵であると。

こういったものによって、

人間は学習することをやめ、

わかったフリを始めてしまう訳ですね。

すると、どうなるのか?

なんと不幸が集まってきます。

なぜなら、自分がハラスメントの渦に

巻き込まれることになり、

負のループに入ってしまうからです。

以前の“純烈・友井雄亮さんの引退会見と、『生きるための経済学』

という記事でも書いていますが、

こういった状況について、

安冨歩さんという方が、その著作の中で

非常にわかりやすく表現されています。

例えば、AさんBさんという

対人コミュニケーションで、

Bさん片方だけが「学習」をやめている場合、

どういうことになるのか。

「Aの投げかけるメッセージをBは表面的にのみ受け取り、学習することなく、それでいて学習のフリだけをして適当にAに返す。Aはそれを真剣に受け取って学習し、メッセージを返すのだが、それをBはまた適当に受け取って返す。こういうことを繰り返されると、AはBについての適切な像を描けなくなり、自分の学習過程への信頼を破壊されてしまう」

生きるための論語』P104

そして、Aさんも学習をやめてしまい、

負のスパイラルへと突入していきます。

さらに、それが連鎖的に広がっていきます。

相手から学ぶことなく、

自分にとって都合のよい像を押し付けることは、

各種のハラスメントや、

さらにはDVにまでつながります。

その行く末は想像を超える地獄でしょう。

これは、対人関係だけでなく、

あらゆる身の回りの出来事に対しても、

同じことが言えるんですね。

逆に、自分の学習回路が

開き続けるような態勢がとれていれば、

本当は、あらゆる出来事から

今の自分では見えていない意味を

発見することができるのです。

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全てのメッセージの裏には、神秘が広がっている

というのも、カントという哲学者の

コペルニクス的転回と呼ばれている、

認識に関する話があります。

昔の人は、物事をありのままに

認識していると思っていました。

例えば、「コップ」をみて、

みんな同じその「コップ」を見ていると

考えていた訳です。

でも、カントさんは、そうではなく、

人は、その人それぞれの認識の枠組み、

それぞれ別のフィルターを通して

対象を認識しているのだと。

つまり、人によっては、

同じ「コップ」の話をしていても、

ブランドで認識していたり、

色で認識していたり、

その色も微妙に違ったりと、

その人の個性に応じて

実は違うものを見ている訳です。

となると、誰かのメッセージだったり、

何かの出来事の意味だったりは、

その通りの意味では

理解出来ないのが当然ですよね。

そこで大切なのは、あらゆる出来事、

あらゆるコミュニケーションから、

自分の見えていない意味、

相手のメッセージの裏に広がる神秘、

新しい真実を発見していく姿勢です。

自ら進んで何かを学習するということは、

そんな神秘を追い求める姿勢を失っていないか、

自分の考え方をチェックする超実践的な訓練なのです。

自分の無知を認め、自分の中に

新しい認識を構築していくことは、

非常にクリエイティブな作業です。

ですから、訓練とは言っても、

実は、その全てが本番でもあるんですね。

これこそ、“バイトテロで考える『悪について』

という前回の記事で書いた、

人間の持つ葛藤に対する

前向きな対応方法の1つと言えるでしょう。

その前回の記事にあわせて言えば、

自分の考え方、物事の捉え方を確認することで、

自分の行動に自覚的になることができ、

悪からも遠ざかれる訳です。

と、まあ色々と書いてきましたが、

知らないことを見つけていく作業によって、

不幸のループを遠ざけることができる訳ですね。

つまり、学習をすることは

ただ知識を吸収するというだけではなく、

自分を好ましい循環に置いておく為の

きっかけにもなっているのです。

その循環に入ることができれば、

日常のあらゆる出来事から

ポジティブなフィードバックが

常に返ってくるようになる訳ですね。

これって、すごくワクワクしませんか?

ということで、今回は学習の意味について、

自分なりに結論が出た部分があったので、

文章にして残しておきました。

自分的にはかなりスッキリしてるのですが、

基本的にわかりにくくてすみません(笑)。

まあ、結局こんな学習の解釈も、

この裏側にさらなる神秘が待っている、

ということになりますが…(笑)。

とにかく、幸せになれるということで、

根っからの快楽主義者の私としては、

とてもありがたい方向性ですね(笑)。

ですので、学習するということを、

今はとにかく大切にしていきたいと

思っております。

最後に、孔子さんの論語から。

子曰、由、誨女知之乎。知之為知之、不知為不知。是知也(先生がいわれた、「由よ、お前に知るということを教えようか。知ったことは知ったこととし、知らないことは知らないこととする、それが知るということだ。」)

論語』P43

では、また〜。

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